この奇妙な能力に気づいたのは、退院して何ヶ月か経った頃だった。
病院から戻ってきたばかりの頃は、妻も娘も心配そうに私を見つめ、
「大丈夫?」「手伝えることある?」と優しい言葉をかけてくれた。
だが、1週間もすれば――
「洗濯物干しといてくれる?」
「ゴミ捨ててきてくれる?」
「掃除機かけれる?」
「お父さん遊ぼ」
我が家はすっかり“通常営業”に戻っていった。
数か所の骨折とはいえ、大きな後遺症もなく、私は普通に会話し、歩き、暮らせていた。
もちろん、痛みはあった。
けれど、家庭内のハードなリハビリを経て、12月の中頃にはすっかり元通りの生活に戻っていた。
本来なら労基が動くような事故だったが、幸いにも現場に他社が入っていなかったのと、施主との関係性に助けられた。
会社も報告はしたが、大事にせずに済んだ。
復帰も無理をしない範囲で――という建前のもと、私は現場に戻った。
季節は冬。
屋根の上には風を防ぐものなど何もない。
冷たい風に鼻水を垂らしながら、キンキンに冷えた板金道具を握る日々。
屋根屋にとって、夏も冬も同じくらい過酷だ。
その日も寒さに耐えながらの作業だった。
あの日以来、私は後輩にも自分にも、休憩をしっかり取ることを意識するようになっていた。
「温かいコーヒーでも飲むか」
私はコンビニで缶コーヒーを2本買い、後輩と一服することにした。
「あざ~す。いただきま~す」
「寒いっすねぇ」
「あぁ、寒い」
何百回としてきた、冬の定番会話。
ただ「寒いですね」と言い合うだけの、意味のないやりとり。
でも、私はこういう会話が少し苦手だった。
「う~寒い寒い。しかし、イヤっすねぇ。何でこんな寒い日に仕事入れちゃうかな、あの社長」
後輩は愚痴をこぼし始めた。
「もっと売り上げ上げろ!って言うけどさ、現場はこんなに必死にやってんのにさ。ほんと嫌になるっすよ」
全く同感だった。
現場の人間はいつだって一生懸命だ。
でも、一生懸命しなくていい仕事なんて存在しない。
たぶん社長も、営業も、それぞれの場所で頑張っているのだろう。
寒空の下、場の空気だけでも和ませようと、私は普段なら絶対言わないような軽口を叩いてしまった。
「そうだな。屋根屋だけに、や〜ね〜……ってな」
……凍りついた。
後輩が無言で私を見つめたあと、ゆっくりと視線を外し、
「ごちそうさまっす」と一言残して空き缶を捨てに行った。
顔が熱い。たぶん真っ赤になっていたと思う。
背中にも嫌な汗をかいていた。
(さっきの、無かったことにしたい……)
強く強く、心の中でそう念じた。
すると――
目を閉じ、数秒後にゆっくりと開けたとき。
目の前には、さっき缶を捨てに行ったはずの後輩が、再び缶コーヒーを手に、私の隣に座っていた。
「あざ~す。いただきま~す」
……?
2本目の缶コーヒーを買った記憶はない。
けれど、彼は今、確かに最初と同じセリフを口にした。
「う~寒い寒い。しかし、イヤっすねぇ。何でこんな寒い日に仕事入れちゃうかな、あの社長」
まるで初めて言ったかのような口ぶりで、後輩は同じ愚痴を繰り返した。
私は黙ってそれを聞き、今度はこう返した。
「そうだな。確かに嫌になるな」
――これが、私に与えられた“能力”の、最初の発動だった。
次回、能力の詳細。いろいろ試して分かった発動条件と制限について。
【エピローグ】
あれから一週間、私はあのコンビニへ向かった。
ひょっとして缶コーヒーに何か奇妙な薬でも入っていたのか?
でも、だとすれば私以外にも同じような体験者が居るはず……。
しかし、この一週間程度では、そんな噂話も聞かない。
分からない。
考えているうちに、目的のコンビニへと着いた。
あの日と同じブラックをレジに出す。
ふと、レジ横の肉まんが目に入る。
最近は、色んな種類が増えたもんだな。
何だ? あの甘ったるそうな肉まんは?
もはや肉まんではないじゃないか!
と、心の中でつぶやきながら、レジを済ます。
暖かい店内を出た瞬間、体をブルっと震わせた。
冬はいつの時代も寒い。
……少しだけ躊躇ってから、私はもう一度店内へ戻った。
「すいません、肉まん一つ下さい。」
財布を開きながら、心の中でつぶやく。
(たまには、甘ったるいのも悪くないか)

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次回 第三話 「仮説」5月3日頃公開予定
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