暑さにも、ようやく身体が慣れてきた。
7月の猛暑を越え、8月に入ってからは少しだけ風が和らいだ気がする。気温は依然として高いが、身体の方が“夏モード”に順応してきたのかもしれない。現場仕事も、ようやくペースが掴めてきた。
そんな中、私には特に予定のない盆休みが目前に迫っていた。妻と息子は、妻の実家へ数日間の里帰り。私はというと、久々の“ひとり時間”を満喫しようと、録り溜めた映画を見たり、ちょっとしたDIYでもしようかなと思っていた。
……そんな日々を変えたのが、一本のLINEだった。
送信者は、兄だった。
「お盆、そっち帰ってもいいか?」
たった一文のメッセージに、私は戸惑いを隠せなかった。
兄――田中慎吾。
私より2つ年上。若い頃から目立ちたがりで、都会への憧れを強く抱いていた男だ。
東京・六本木でバーを経営している。と聞いてはいるが、実態は曖昧だ。
細身で身なりが良く、歳の割に若く見える。口が達者で女好き、恋人はいるが結婚する気配はまったくない。学生時代から「慎吾さんカッコいい!」と女子に騒がれていた。
その兄が、珍しく帰省したいと言ってきた。
何か裏があるのでは?――その直感は、見事に的中した。
実際に会ってみると、兄は開口一番こう言った。
「いやぁ、最近ちょっと店の方がさ……。正直、厳しいんだよね」
経営が芳しくないらしい。コロナ禍もあって客足が減り、最近は固定費で首が回らなくなっているようだった。
「でさ、ちょっと勝負してみようと思って。競馬」
「は?」
「そっちに競馬場あるだろ? 地方だけどさ、穴がある。大穴狙いってやつ。ちょっと一発狙ってみたくて」
兄は悪びれもせず笑った。
……呆れるしかなかった。
私の住む町に地方競馬場があるのは事実だ。
けれど、ギャンブルに人生をかけるような真似をするのは、正直理解できない。
だが、結局私は、兄の“冒険”に付き合うことになった。
兄が「馬を見に行こう」と言い出し、息子が実家から帰ってきていたこともあり、私も同行することになった。
「いいじゃん、夏の思い出だよ。馬、見たことあるか? な? シンジ」
……息子は大喜びだった。
競馬場は夏休み中のイベントもあり、家族連れの姿もちらほらあった。だが、馬券売場の周辺はやはり殺気立っており、異様な熱気に包まれていた。
兄はと言えば、完全に勝負モード。
「本命だ、本命。これでいく。20万、単勝一点」
「え? 20万て……」
「当たれば100万超える。大丈夫、データも予想も完璧だ」
手には赤ペンでぐちゃぐちゃに書き込みされた競馬新聞。兄の自信に、根拠はまるで感じられなかった。
私は、唖然とした。
そして――レースが始まった。
結果は、惨敗。
まさかの大穴馬が一着。オッズは120倍。兄の馬は四着だった。
「……マジかよ。嘘だろ……」
兄は顔を真っ青にして座り込んだ。
私は悩んだ。
(……これで使うのか?)
『アレ』――あの能力。
月に一度だけ、時間を巻き戻す不思議な力。
使うべきではない。そう思いながらも、目を閉じて強く念じていた。
(戻れ……)
視界が暗転し、再び元のレース前の時間へ。
私は兄に助言してみた。
「なぁ、ちょっと待て。本命じゃない方が……いや、大穴、あるかもな」
「なに言ってんだよ、そんなの買う奴いねぇって」
兄は一笑に付した。
変わらなかった。兄はまた20万を失った。
私は、誰にも言わず、大穴馬の単勝馬券を2,000円だけ購入していた。
そして――的中。
24万円の払い戻しを手にした。
「兄貴。当たった」
「……は? 何が?」
「俺、あの大穴の馬、買ってたんだ」
兄はしばらく呆然とし、次第に膝を叩いて大笑いした。
「マジかよ! お前、マジかよ! すげぇなシンジ!」
私は配当金の封筒を兄に差し出した。
「ほら、持ってけ。どうせ、当たってたら兄貴のもんだったんだし」
「いいのか……?」
「真面目に働けば、金はなんとかなる。それでも足りなかったら、また考えろ。今度は違う形でな」
……それからしばらくして、兄は自らのバーを閉め、六本木を離れた。
次に届いたLINEには、こう書いてあった。
『店、売った。今度は焼き鳥屋にするわ。炭の匂いが似合うオトナになる!』
私はその文面を読みながら、坊主頭にねじり鉢巻をした兄の姿を想像した。
(……いや、ないな)
思わず吹き出した。
そして、私は静かに心に誓った。
“もう、二度とギャンブルにこの力は使わない”
――それが、私の小さな夏の教訓だった。
次回予告 生まれて初めての美容院。息子の為に・・・
第8話 『父親参観とイメチェンと』 5月21日公開予定
【エピローグ】
兄が帰った後の休日、健太郎を近所のプールに連れて行った。
浮き輪で遊び、一緒に潜り、冷たい水に笑い声が混ざる。夏の、いつもの午後だった。
休憩時間。「ジュースでも飲むか?」と声をかけると、健太郎が不意に言った。
「ねぇ、お父さん。慎吾オジちゃん、また来る?」
「どうかな。オジちゃん、忙しいみたいだからな」
「ボク、競馬のジョッキーになる」
「……え?」
「ボクが勝ったら、慎吾オジちゃん喜ぶでしょ?」
にっこり笑ったその顔が、どこか真剣だった。
返す言葉を探している間に、笛が鳴り、健太郎はプールへと戻っていった。
帰り道、夕焼けに染まる歩道で、健太郎がぽつりと言った。
「お父さん、時間って……戻せたらいいのにね」
ドキッとした。
「どうして?」と返す間もなく、彼は目を閉じて、私の背中で眠りに落ちた。
……まさか、知っているのか?
いや、そんなはずはない。けれど――
(すまん、健太郎。いつか、ちゃんと話すからな)
私は背中の重みを確かめるように、ぎゅっと肩に力を込めた。
次回予告 第8話 『父親参観とイメチェンと』
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