昔は《キレる若者》なんて報道があった。我慢が出来ず他者に対して暴言や暴力を振るう若者が増えている。とワイドショーで繰り返し放送されていた。そういうものなのかなと思っていたが、最近は《キレる中年・老人》の方が多いように感じる。
特に運転。到底安全とは言えない車の動き。無理な割り込み、急加速、急ブレーキ。そして詰め寄り、罵声、時には暴力。よくもまぁ「最近の若者は…」なんて言えたもんだ。
自慢ではないが、私はほとんど怒らない。理不尽を感じることはあっても、感情をぶつけることはない。ただ、一度も無かったわけではない。学生時代には喧嘩も何度かした。
私の育ちは九州の片田舎。山を2つ越えて学校へ通うのが日常だった。村中が知り合いという土地柄で、のどかだが、時にぶつかり合いもある。田舎の喧嘩は早い。都会のように威嚇しあうように顔を近づけ、睨みあい、罵りあい、自らは手を出さずに互いの出方を窺うような事はしない。一言二言交わしたら、すぐに拳が出る。そして、殴り合ったあとにはケロッとして仲直りしていた。あのスピードと潔さは、今でも嫌いじゃない。
6月、雨。梅雨のじめじめとした空気に加えて、うちの支店に新しい上司がやってきた。本社からの左遷組だという噂だった。売上不振の立て直しという名目で送り込まれたその男は、挨拶代わりに社員を叱責する。
「何年この仕事やってんだ?」「信じられないよ、キミ」
嫌味に満ちた口調。後輩の山下は我慢が効かず、返事をしながらも視線で睨み返していた。
「くそ、ハゲ野郎!次、嫌がらせしてきたら、ぶっ飛ばしてやるっすよ…」
昼休み、彼はそう言って拳を握った。「ねぇ、シンさんもそう思うでしょ?」と私に振られて、曖昧に笑った。
午後、オフィスで事件が起きた。
「こんな簡単な文章でミスタイプ? 何年やってんの?」
標的は新入社員の女性だった。たどたどしく謝る彼女に、例の上司は容赦なく言葉を重ねる。
「年数なんて関係ないよ。こんなの社会人失格だね」
それだけでは終わらなかった。
「任せたヤツも悪い。なぁ、山下くん」
明らかに挑発するような口ぶりだった。山下が立ち上がった。
「俺に言ってんすか?」
「態度が悪い。不良か? 上司にたてつく? それでカッコつけてるつもりか?」
そして、私の方へ向き直った。
「キミも同罪だよ。こんな人間が部下だなんて、教育がなってない」
山下が遮った。「シンさんは関係ないでしょうが!」
上司は鼻で笑った。
「シンさん? 上司に『さん』付け? クズだな」
……気づけば、私は立ち上がっていた。身体が勝手に動いた。
「何だね? 格好つけたって、何も言えないんだろ? 高卒? 中卒か?」
その言葉の直後だった。
「せからしかったい、きさん。ぶちくらすぞ、このハゲがっ!」
拳が先に出た。九州男児にとっては、それが自然な流れだった。
ゴンッという鈍い音と共に、上司の体が宙を舞い、デスクの上に崩れ落ちた。
「キャー!」「うわーっ!」
オフィスは騒然となった。山下が青い顔で言った。
「マズいっすよ、シンさん…でも、スカっとしました」
いや、マズい。これは本当にマズい。クビ案件。間違いなく。
この歳で暴力沙汰?家族に、妻に、どう説明すれば?
まさか、本当に警備員の求人誌が必要になろうとは・・・。
私は強く目を閉じ、心の中で叫んだ。
(戻れ……頼む、今すぐ戻れ)
目を開ける。
「……中卒か? ハハハ!」
同じセリフが、耳に飛び込んできた。
戻った。成功だ。
今回は、ギリギリだった。もし戻っていなかったら……ゾッとする。
上司は嘲るような笑みを浮かべ、書類を投げつけて席に戻った。
山下がそっと近寄る。「シンさん、すんません。巻き込んじまって」
私は右手を見つめ、『能力』のおかげで事件にならなかった事に深く感謝していた。
「まったくあのハゲ野郎め。あれ?大丈夫っすか? 右手、なんか痛めました?」
山下が心配そうに聞く。
私は微笑んだ。
「いや、大丈夫。でもな、山下」
彼の目をまっすぐ見て言った。
「ハゲは、言い過ぎだ。人の容姿をバカにしちゃいけない」
山下はシュンとしながら、「すんません。でも、ムカつかないんすか?」
「平気だよ」
震える右手に気づかれないように、私はゆっくりと親指を立てた。
しかし、まぁ……
『人の容姿をバカにするな』なんて、良く言えたもんだな、俺も。
恥ずかしさと、ほんの少しの誇らしさを胸に、デスクに戻った。
次回予告 夏の暑さに苦しむ進次郎。そんな中、能力の新しい使い方を思いつく・・・
第6話 『真夏の屋根』
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