年が明け、冬の空気はなおも冷たく、空には薄い雲がたなびいていた。
家族旅行の予定だったはずのこの年末年始は、突然の悲劇によって全てが塗り替えられていた。
田中進次郎――
その名前は、事件後しばらくのあいだネット上を騒がせ続けた。
「暴力をふるってでも、新幹線を止めた男」
「結果的に大事故を防いだかもしれない中年男性」
「英雄か、狂人か」
正体不明の彼の行動に、様々な憶測が飛び交い、週刊誌が過去の経歴を掘り起こし、ワイドショーが騒ぎ立てた。
しかし、誰も知らなかった。
彼がなぜ、あの瞬間にすべてを投げ打ってまで止めに走ったのか。
なぜ“知っていた”のか。
本当の理由は、彼だけが知っていた。
健太郎は、少しずつ以前の生活を取り戻しつつあった。
だが、ふとした瞬間に思い出す。
テレビで流れた父の姿。
最後に交わした「じゃあな」の声。
そして――自分しか知らない「記憶」。
学校では、特に事件のことを口にする子どもはいなかった。
先生もクラスメートも、みな気を遣っているのが分かる。
でも、それでいい。健太郎はそう思っていた。
あれは自分だけの秘密。
誰にも言わないけど、絶対に忘れない。
「お父さん、ありがとう」
ベッドの中で、こっそり呟く。
その夜、夢を見た。
真夏の公園。汗をかいた父が、笑いながらブランコのそばに立っていた。
「……健太郎。やり直せたら、どうする?」
「うーん、給食のカレーをもっと食べたい」
「そうか。なら、次は大盛り頼もうな」
くだらない夢。でも、やけにリアルだった。
目覚めたとき、枕が少しだけ濡れていた。
春が来て、季節が巡ったころ。
山下は、進次郎の命日をひとりで訪れていた。
静かな墓前に、缶コーヒーを2本置く。
「シンさん……」
風が吹き、木々がざわめいた。
「あんたがいなくなって、会社も少し変わったっすよ。みんな、何かに気づいたのかもしれないっすね」
言葉を止め、缶を1本手に取り、開ける。
「……俺、変わりました。ちゃんと、真面目に生きてます。彼女とも、あれから続いてるんすよ」
笑いながら、もう1本を墓石の前にそっと置く。
「飲んでくださいよ。冷たいっすけど、今日は暖かいから、すぐぬるくなる」
ふと、ポケットから一枚の紙を取り出す。
それは、あの時進次郎が抱えていた“やり直した未来”の断片――
自分が知らないはずの出来事が、いくつも綴られていた。
「……これ、健太郎くんからもらいました。“お父さんが書き残してたかもしれない”って。冗談みたいだけど、なんか信じたくなった」
墓前に置いたその紙は、風に揺れながらもしっかりとその場に留まっていた。
時間は、戻らない。
だけど、誰かの“勇気”や“選択”は、誰かの未来を確かに変える。
普通のサラリーマンだった田中進次郎。
彼は、自分の能力を誰にも誇ることなく、たった一人で戦い続けた。
“たった6時間だけ”
“たった月に1回だけ”
そんな中途半端な力を――
誰かのために、使いきった。
今もどこかで、誰かの人生を救っている“誰にも知られないヒーロー”がいるのかもしれない。
進次郎のように。
【完】
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